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本庄繁長の生涯から読み解く上杉謙信の関東入国

 上杉謙信(当時は長尾景虎)の最初の関東への出陣は、上杉憲政の越後亡命直後の天文22年頃と、永禄3年前後の二説があります。謙信の先鋒となった繁長が伊勢崎の那波城を攻めたことは有名ですが、『関八州古戦禄』には当時十七歳だったと記されています。もし、天文八年生まれの繁長が十七才だったとするならば、謙信の越山は天文二十二年頃であることになります。
 しかし、『古戦録』の著者槇島昭武の書『北越軍談』をよく読むと、繁長の父房長が死亡した年を天文十四年としており(おそらくは八年の誤り)、嫡子繁長が当時三歳だったとしています。このことから、昭武、もしくは彼の書のもととなった資料をつくった人物は、個々の歴史的事件から、登場人物の年表を編纂したうえで、独自に年齢を計算し、歴史書を完成させたと推測できます。
 したがって、繁長の生年が通説通り天文八年だとすると、謙信の那波城攻めは、やはり永禄三年頃であり(北越軍談では関東越山は永禄初年)、繁長二十三歳前後のことだったと考えられます。
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「本庄繁長」ゆかりの地を訪ねて 第二回

 新潟県と山形県の県境にある奥三面ダム。磐梯朝日公園内に位置するこの場所は、かつてアチャ平とよばれ、周辺にはいくつかの村が存在し、古くは縄文時代から人々が暮らしていました。そんな奥三面で村の存在が確認されたのは江戸時代という記録もあります。
 戦国の武将・本庄繁長は積極的に金山の開発にも努めました。彼が朝日山系の鳴海、駒ヶ岳、金之丞山などから採掘させた金は、当時としては国内最大級の産出量を誇っていました。繁長は、決して武略だけの指導者だったわけではなく、経済基盤の充実を図るという点でも、上杉謙信や武田信玄と肩を並べるほどの資質を具えていたのです。
 アチャ平附近にあった村や貴重な縄文遺跡郡も、ダムの底に水没してしまいましたが、今では地元の交流館でその歴史を知ることができます。

[縄文の里・朝日奥三面歴史交流館] JR羽越本線「村上駅」より縄文の里・朝日行き、バス40分。

「本庄繁長」ゆかりの地を訪ねて 第一回

 1539年、越後国岩船郡小泉庄本庄、現在の新潟県村上市で本庄千代猪丸、後の弥次郎繁長は誕生しました。父の本庄房長が出羽の庄内に出陣していた間に、弟の長資が反乱を企て、本庄城(現在の村上城)を簒奪してしまいました。自分の城が弟に奪われたことを知った房長は、怒りのあまり卒倒をおこして急死してしまいました。
 この時、妊娠していた房長の妻は、腹に敵の刃を受けたものの、なんとか城を脱出することができました。そして、里本庄村もしくは朝日村猿沢の地で子供を産んだと伝わります。生まれた子は、約13年間の雌伏の時を経た後、村上城を奪還することに成功します。二年後、上杉謙信と出会った繁長は、戦国最強の武将へと成長していくのです。

[村上城] JR羽越本線「村上駅」下車、徒歩25分。
プロフィール

Murasakiukon

Author:Murasakiukon
GENDER:Male
PLACE OF BIRTH:Tokyo
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「本庄繁長伝 千古不滅の森]

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